たかがタイガース。されどタイガース。

あなたは阪神といえば「弱い」と思っているかも知れない。 そう、それは正しい。喩えて言うならりんごが木から地面に落ちるくらい。
これはこの15年ほどの阪神の略歴である。
1985年:74勝49敗7分け(1位)
この年21年ぶりにリーグ優勝、球団史上初の日本一バース三冠王。三十本本塁打以上が四人。バックスクリーン三連発など数々の伝説が生まれた。 個人的には木戸の一試合三ホーマーが妙に印象的だった。
しかし奢れる平家久しからず、それが悲劇の始まりであった…。

1986年:60勝60敗10分け(3位)
バースが二年連続の三冠王。しかしそれだけだった。掛布死球で死亡。

1987年:41勝83敗6分け(6位)
吉田政権三年目。落日は驚くほど早かった。球団史上最悪の勝率。二年前の栄光の陰も形も既になく…。 バースとキーオの助っ人コンビがいなかったら100敗行っていただろう。フロントとももめた吉田監督あえなく退団。

1988年:51勝77敗2分け(6位)
第二代ミスター・タイガース村山氏再び監督就任。この年の途中史上最強の助っ人神様、仏様、バース様、フロントともめ退団。 監督ともめた第三代ミスター・タイガース掛布引退。一時収まっていたお手芸家内騒動だらけ。
もうこの頃には「タイガース」と言う言葉は「あかん」の代名詞と化していた。 阪神便乗店舗も一件、又一件と閉店。その時もタイガースの帽子を被っていた自分は健気だった。しみじみ…。

1989年:54勝75敗1分け(5位)
後に大リーグで大活躍するフィルダーがやって来たりしたが,少年隊では得点能力に限界があったのか、結局五位。 最下位にならなかった、という記憶だけある。薄幸のすぐ疲れるエース、キーオ孤軍奮闘。
この89年には後の一部報道によると佐川急便の阪神買収計画がかなり現実味を帯びていたらしい。 ちなみに黒幕は読売新聞社長の渡辺氏だとかなんとか。

1990年:52勝78敗0分け(6位)
かれこれ二十年ほど監督が四年以上続かないタイガース、 例によって村山監督も二年で終わり、若きエリート(?…でも地味)中村勝広監督就任。 監督が悪いのか、フロントが悪いのか、選手が悪いのか、ファンが悪いのか、巨人が悪いのか、 前年と全く変化なく最下位。

1991年:48勝82敗0分け(6位)
この年はさらに事態が悪化し、球団史上初めて二桁勝てた投手が出なかった。九勝した猪俣も 消化試合で稼いだだけという噂も。一線級半といった人材はわんさかいたのだが…。

1992年:67勝63敗2分け(2位)
そんな中、背水の陣の中村監督三年目、阪神が春先からおかしくなった。今年と同じである。
何故かあの仲田幸二が絶好調。中込も気が狂ったように調子がいい。湯舟もノーヒット・ノーランを達成するし、 田村が抑えのエースとして君臨。ヘッドスライディング男、亀山努が一世を風靡し、オマリーと大洋に解雇されたパチョッレックが 打ちまくる。シーズン途中からあの新庄もメジャーデビュー。仲田奇跡の奪三振王久慈新人王
最終的には最後に力尽きて二位であったが、この年甲子園は観客動員数記録更新。この年自分はかなりマニア化する。

1993年:63勝67敗2分け(4位)
で、お目出度い阪神ファンは93年の開幕前は八年ぶりの優勝を信じて止まなかった。ところが開幕戦に仲田幸二が 滅多打ちに合い、一年で逆戻り。おまけに前年マスコミに投手王国とか騒がれたのに 乗せられたのか、(結局役に立たなかった)松永とのトレードで野田を放出したのが祟る。ちなみに野田はこの年オリックスで最多勝。 オマリーが首位打者。湯舟前半戦で10勝するも12勝止まり。

1994年:62勝68敗0分け(4位)
藪恵一颯爽とデビュー。あと、当時としては破格の年俸で鳴り物入りでディアー来日。この頃からフロントは また変な助っ人をコレクションし出すようになる。あと、去年の松永に続き、石嶺、山沖と言った、うーん、 と言いたくなる面々をオリックスから貰ってくる。結局この年も開幕前の期待の割には何もないままに終わった。 藪新人王

1995年:46勝84敗0分け(6位)
六年目という、阪神の監督としては異常に長期に渡った中村政権の終焉。オマリーの穴は大きかったのか (ちなみにヤクルトに移籍したオマリーはこの年しっかりMVPに輝いている)、四年前の駄目トラに逆戻り。 チーム本塁打王が新庄・石嶺の17本、最多勝が藪の九勝と哀しすぎる。

1996年:54勝76敗0分け(6位)
前年途中に監督代行になった藤田平氏が正式に監督就任。個人的には選手の起用法にかなりの疑問を感じたのだが、 結果も全く出ず、一年で監督交代。

1997年:62勝73敗1分け(5位)
もう縁起に縋るしかないのか、再び日本一監督吉田氏三度目の監督就任。しかしながら期待の主砲グリーンウエルは神の 御告げを聞いて七試合出ただけで帰国。その後も何やかんやと次から次へと外国人を呼んで来たが、結局誰一人使い物にならず。 個人的には湯舟が久し振りに二桁勝利し、まあいい年だった。開幕直後の和田の連続試合安打記録更新と 竹内が最後まで防御率のタイトルで競っていたのがせめてもの話題だろうか。

1998年:52勝83敗0分け(6位)
四・五年前はオリックスの粗大ごみばかり貰って来ていたが、今回はオフに久慈・関川を放出してパウエル・大豊・矢野 と言った面々が中日からやってくる。 まあグリーンウエルよりは…と思ってしまう所が慣れって恐い。川尻がノーヒット・ノーラン

1999年:55勝80敗0分け(6位)
野村監督を招聘し、開幕前はこのページのようにちょっと期待もし、 実際一時期待望の単独首位になるも夏に力尽きた。 藪の後半の絶不調と外国人との意志疎通の失敗が響いた。

2000年:57勝78敗0分け(6位)
野村監督二年目。今年も一瞬待望の単独首位になるもまたしても急降下。 新庄が四番に定着するも、その他がさっぱりの打線では如何せん点が取れない。 チーム防御率はリーグ三位も、打率と得点はぶっちぎりの最下位。投手陣では期待の星野がそれほど活躍できず、 打撃陣も補強はほとんど機能せず結局去年と同じメンバー。
ところで投手陣は現時点での主力が先発・中継ぎともに福原以外は全て30台と、 かなり深刻な状況なのだが、来年は大丈夫なのか?

2001年:57勝80敗3分け(6位)
良くも悪くも唯一の華、新庄がメジャー移籍。例によって今年も打てず。珍しく助っ人投手のハンセル、カーライルの二人は かなり活躍するも援護なし。援護なしといえば井川がかなり開花するも、僅差負けで9勝止まり。採集登板前まで防御率トップだったが 二桁を目指した最後の登板で打たれタイトルを逃す。あとは福原、途中移籍の谷中らが奮闘。野手では我らが世代の 心の支え、和田豊が引退。この引退試合のインタビューで涙したのは私だけではないだろう…。
結局野村監督になって三年連続で最下位。で、それにも関わらず居直り出したと思われる野村監督が続投の気配だったが、 夫人の脱税問題が刑事事件に発展し、あえなく辞任。どうも引き際がいつも美しくない人であった。


※元々は2000-2002年版の記事もあったのだが、中途半端であったため、復刻版では省略